03*コンフリクトちゃん(後編) / よしのももこ

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その小さな女の子、コンフリクトちゃんにひらめきを与えた2冊の本とは、ドイツ生まれのミヒャエル・エンデさんが1973年にリリースした「モモ」と、日本生まれの黒柳徹子さんが1981年にリリースした「窓ぎわのトットちゃん」だ。2冊とも単純に面白くてワクワクする物語であり、想像力の入り込む余地がふんだんにあったので、コンフリクトちゃんはそれはもう夢中になって読んだ。

どちらも小さな女の子が主人公で、たくさんの人々が登場する物語である。描かれているひとつひとつのエピソードの中でコンフリクトちゃんの中に強い印象を持って入ってきたものはアレコレあったが、もっと大きく見るとそこには「同じ画面のもとでも、採用するシステムの違いによってまったく別の宇宙が同時存在している」というシンプルな事実が描かれていた。

例えば「モモ」の世界では、自分の人生に対する小さな疑念や退屈感、効率化や貯蓄の概念など、ヒトの中にあるさまざまな想念データが「灰色の男たち」という存在を造り出し、その男たちに「いま、時間を貯蓄することで利子を獲得し、いつかの未来に得をすべき」と云わせてしまう。その設定を採用したヒトたちと、採用できなかったモモとの間では実際に同じ場に居て会話していてもコミュニケーションが成立しなくなり、ついには接触すらできなくなってしまう。

「トットちゃん」の方も、学校における「一斉授業」のシステムを無条件に採用しているヒトたちから見れば、トットちゃんは単なる邪魔者であり、小学校1年生の時点であっという間に退学させられてしまう。そこで描かれる「モモ」と「トットちゃん」の孤独はかなりのものだ。

ただし、その孤独が絶望的なのは大多数のヒトが採用しているシステムの中に無理やり留まろうとするときだけであって、そこからふと外れて見渡してみれば、この世には星の数ほどのシステムが毎瞬生まれては消えていることに気づくのである。大多数のヒトが採用しているシステムの中に留まることを義務であるかのように云うヒトは少なくないけれど、実はどれを採用しようと完全に自由であり、選ぶのは自分なのだ。

システムとは、ヒトを縛るためのものでは決してない。というか、そもそもヒトを縛る力なんてシステムには備わっていなくて、縛られたいヒトが勝手に縛られているだけだということにコンフリクトちゃんは気づいてしまった。そこではじめて、学校のすべてに合点がいったのである。

どの瞬間にも、有形無形のあらゆる存在が自分に向かって語りかけ、歌いかけて来ている。ただしひとつひとつの交信のタイミングはほんの一瞬であり、そのたった一瞬の「感じ」に気づいて受け取って投げかけて響きあうこともあれば、気づかずにそのまま流れて行くこともある。そのON/OFFの組み合わせによって、ヒトそれぞれの宇宙が形作られている。もともとは、たったそれだけのシンプルな仕組みなのだ。

つまり、「今」という一点にはすべての可能性が存在している。「モモ」と「トットちゃん」には、そのことがハッキリと書かれていた。文章で説明されていたのではなく、その「感じ」がこれでもか!というくらいダイレクトに放射されていたのである。それは小さなコンフリクトちゃんにとって、ものすごく大きな衝撃だった。

周囲を取り巻く環境(画面)は変わらないままだったけれど、その衝撃以前と以後とではコンフリクトちゃんの目に映るすべてがすっかり変わってしまった。コンフリクトちゃんは「どこにもない家」や「トモエ学園」を知ってしまった。知ってしまったということは、そこにいつでも行けるということだからである。

こうして、その小さな女の子・コンフリクトちゃんは、高校卒業までの12年間「学校」という場に通い続けることができたのだった。


2013-05-23 | カテゴリー どこにもないエリアで会いましょう |