どこにもないエリアで会いましょう

06*Jのママさん〈後編〉/よしのももこ

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Jの2階はママさんの部屋になっていて、壁一面の本と、猫の気配と、小さなオーブンのほかには余計なものがほとんどない素敵な空間でした。その部屋の入り口の前にタイムカードが置いてあったので、帰り際ママさんに声をかけて部屋に入って話をすることはいくらでもできたはずなのに、私はそれをしなかったのです。ただ一度、頼まれた道具を取りに入ったことがあっただけでした。

Jで働き始めてだいぶ経ったある蒸し暑い日の午後、私はマスターと2人で狭いカウンターの中に立っていたのですが、気圧の変化かなにかで気が上がってしまって、動悸がしてきたのです。次第に目の前もチカチカし始めて、マスターに何か話しかけられても心ここにあらず。自分のからだを起立させておくので精一杯でした。お客さんがいたのかどうか、接客をどうこなしたのかも、まったく思い出せません。

からだの異変とともに時計の秒針の進むスピードもどんどん遅くなり、1分が途方もなく長く感じられます。意識の焦点が合う範囲が絞られてゆき、絞られた分だけその一点がどんどん膨張して圧力を増し、今にも破裂する!というその瞬間、

ふと気づくと隣にいたはずのマスターの姿はなく、カウンターの外からママさんが私をのぞき込んでいたのです。

「気が上がったときはね、」

唐突に、ママさんが言いました。あ、そうか。私は気が上がっていたんだった。でも何でママさんがそれを知っているんだっけ?と、ボーッと突っ立っている私の背後にママさんは素早く回り込むと、脇の下の水掻きのような部分を思い切りつまんでグイッと下にひっぱりました。

「こうするといいのよ。」

そうしたら本当に頭に上がっていた気がすっと下がったようになって、私は正気を取り戻したのです。いつの間にか2階から降りて来て、私の異変を察知してくれただけでなく対処法まで伝授してくれたママさんは、「あんたは、私に似てるから。」とだけつぶやくと、それ以上何も言いませんでした。

それから15分くらいの間、店内には私とママさんの2人だけ。2人きりで話すことは今までなかったから、嬉しいんだけど何から話せばよいのかわからなかったのですが、とにかくママさんが毎日焼いているニューヨーク焼きチーズケーキが今まで食べたどのチーズケーキよりもおいしくて大好きだってことを伝えたら、ママさんはさらっと、「いつでも作り方教えてあげるよ。簡単だから。」と言ってくれたのです。「この人に、教わりたい!」と感じた生まれて初めての体験でした。そこへ遅番のアルバイトの子が降りて来て、私とママさんの会話の空間はさっと閉じました。

その後も相変わらず私はママさんの部屋に入れないままで、ケーキの焼き方を教わりにも行けないまま月日が過ぎて行きました。ママさんは少し体調を崩して店に出られない日が続くようになり、私はますますママさんの部屋を訪ねることを遠慮していました。

今ここから眺めてみれば、あの頃の私は“この店に入っていい人”から始まって、“ママさんの部屋に入っていい人”だの、“ケーキの焼き方を教えてもらっていい人”だの、この世に存在しない資格のようなものを自ら作り出していただけなのがよくわかります。ひとの懐に、どんな風に飛び込めばいいのかがわからなかったのです。「ひとがそれぞれ設定した境界線を無断で越えて、そのひとのエリアを侵してはならぬ!」という謎の思い込みが太い手綱となって、自由に走り出そうとする私を背後から常に制御していました。私が今いる位置からなら、その手綱を握っているのが自分だってことが丸見えなのだけれど……。

そして、私がそんな独り芝居を全力で演じている間に、ママさんはこの世から引き揚げて行ってしまったのです。最近ちょっと具合が悪いみたい、というのを聞いてから、あっという間のことでした。

ちょうどその頃、近所の中学校の図書室で1年間働くことが決まり、Jのウエイトレスとして過ごさせてもらった日々は終わりを迎えました。最終日、額縁の中のママさんの写真に挨拶しようと2階の部屋を訪ねると、その部屋に私を入らせなかった“何か”はもうすべて消え失せていました。驚くほど普通の生活空間がそこにありました。ああ、もっと早くここに来ればよかったな。最後の日にもまた同じ言葉をつぶやく羽目になるなんて、まったくマヌケな話です。

ママさんの後を追うようにしてマスターもこの世を去り、Jのドアが開くことはなくなってしまいました。惜しむ声はたくさんあったけれど、一代限りで終わらせたいというのがマスターの考えだったのだそうです。1年ちょっとの僅かな間、閉じる間際のJという空間と私がリンクしたことはまったく有り難いことで、ただただ神に感謝するほかありません。

あの蒸し暑い日の午後に天から与えられたママさんとの数十分間のことを思い出すたびに、私のからだの中心で光の柱がブーンと振動しているような感覚になります。その感覚は、ママさんという存在を通して私に伝授されたものが確かにあることを思い出させてくれるのです。

エンデが「はてしない物語」の中に書き記したアイウオーラおばさま ――「変わる家」にバスチアンを迎え入れ、自分の身に生った果物をもいで与えたあの女性―― のように、ママさんはあのとき、家のドアを開け放して、私をその中に迎え入れてくれたのだと思います。私には食べきれなかった果物もたくさんあったなーという後悔の念もいちいち湧いて来るけれど、そのたびに「そんなの、どっちだっていいじゃない。食べたいときに、必要なだけ食べたらいいんだから。」という言葉がママさんの声で再生されて、私は再びなにもないところに立ち返ることができるのです。

2016-07-26 | カテゴリー どこにもないエリアで会いましょう

 

05*Jのママさん〈前編〉/よしのももこ

国立の駅からすぐの細い路地に、Jという喫茶店がありました。学校帰りにこの街に寄って、古着屋をのぞいたりレコード屋でバイトしたりしていた十代の頃の私にそのドアを開ける勇気はなく、いつも小窓から漏れるオレンジ色の暗い灯りを横目でチラリと見ながら素通りしていました。

時は流れ、私は少しだけ年を取り、Jのドアを開けてコーヒーとチーズケーキを頼む日がやってきました。私なんかが足を踏み入れたら、店員さんからも他のお客さんからも「“わけのわかってない”小娘がここに何の用だ?!」という視線が一斉に突き刺さってくるんじゃないか……などと、勝手な妄想をふくらませていた昔の私がマヌケに思えるくらい、そこは受容の空気に満ちていて、誰が何を話しかけてくるわけでもないのに「好きなだけそこに居ていいですよ」と言われているような気がしたのでした。

私は、からだに合わないコーヒーを飲むと血圧が急に下がって、動悸・冷や汗・めまいでえらいことになってしまうのだけれど、Jのブレンドコーヒーは大丈夫でした。“大丈夫”どころか、今まで飲んだどのコーヒーよりおいしかったし、添えられたミルクまで完璧だったのです。自家製のニューヨーク焼きチーズケーキは、しっとりしているけどベタベタした甘さがなくて、やっぱりとても好きな味。煙草は苦手なはずなのに店のにおいもなぜか心地よくて、ああ、もっと早くここに来ればよかったな、と思ったのでした。

すみっこの席にちんまりと座って、店の中に吊るされたランプや時計やその他いろいろな古い道具を眺めたり、持ってきた文庫本をのんびり読んだりしているうちに小一時間が経ち、私は伝票を持ってカウンターに向かいました。千円札で代金を支払うと、“ママさん”と呼ばれている女性がそれを受け取り、お釣りを手渡しながら「ありがとうございます。またお願いします。」と言って僅かに微笑んだのです。その瞬間、

「菩薩だ!!」

菩薩が何なのかなんてまったくわかってない(今もわからない)私が、ママさんのその表情を見て、はっきりとそう感じたのです。私の脳は、感覚器官が受信したデータの何を“菩薩”という言葉に変換したのか。何かに菩薩を感じたのは、後にも先にもそのときだけです。

そこから先の記憶はとても断片的で、まずは、店の出口脇の壁に貼ってあった「ウエイトレス募集」という小さな手書きの紙に気づいた場面。次に、カウンターの中の赤毛のおじいちゃん(マスター)に向かって「ここで働かせてもらえませんか?」と言っている場面。それに対してマスターが「いいですよ。」と答えている場面。それから、シフト表の空きを見て、来る日を決めている場面……すべてが同じ日の出来事なのか、それとも別の日に出直したのだったか、いくら思い出そうとしてもぼんやりとしていて思い出せないのだけれど、その日から私はJのウエイトレスになったのでした。

Jでのアルバイトは、それまでたくさんやったアルバイトとはまったく異なっている体験でした。誰も私のフルネームを知らなかったし、私もマスター以外の誰のフルネームも知らなかった(しかもマスターには、名前が2つあった)。時給がいくらなのかも、よくわかってなかったし、どうでもよかった。ママさんが毎朝すみずみまで掃除していたので、お昼前の静かな店内にたたずんでいると、しゃきっと澄んだ水を浴びたような気持ちになりました。そしてなにより、家から店に向かう途中に心が重くなることが一度もなかったのです。

どのオーダーがどのお客さんのものかとか、どっちのお客さんが先に注文したかとか、そういう大事なデータを覚えておくことができなかったり、ケーキをきれいに等分できなかったり、カップとソーサーを違う柄の組み合わせで出そうとしてマスターとママさんに苦笑されたり、私はあまり出来のよいウエイトレスではなかったけれど、早くこれをしろ!あれを覚えろ!というプレッシャーをかけられることもありませんでした。

私のからだの調子がおかしくならないコーヒーは、どうやらネルのフィルターで淹れたものらしいということ。エバミルクと生クリームをブレンドしたものが、コーヒーには宇宙一合うこと。ビリー・ホリデイの歌声が特別だということ。摘んできた花をちょっと飾るだけで、その一角の空気が変わること。厚切りトーストのおいしい焼き方。氷屋さんが毎日届けてくれるぶ厚い氷の塊をアイスピックで砕くコツ。パイプの煙のいい香り。それまでの人生で知るチャンスがなかったことも、Jのカウンターの中でたくさん知りました。

〈後編につづく〉

2016-06-03 | カテゴリー どこにもないエリアで会いましょう

 

04* ツチヤ君の部屋 / よしのももこ

19歳の頃、「バンド演奏でもやってみようかな~」となぜか突然思い立った私は、雑誌のメンバー募集欄でコーラス&タンバリン係を募集していたバンドに加入しました。そこのドラマーだったのがツチヤ君という4つ年上の兄さんで、私がその後組んだサニチャーというバンドでもドラムを叩いてもらうことになるのですが、その当時(93~94年頃)バンドのメンバーやら別にメンバーではない友達やら、いろいろな人がたびたびツチヤ君の実家の部屋に集まっていました。

いつ行っても誰かがいて、だらだらしたり、レコード聴いたり、昼間っから楽器弾いたり歌ったり、それをカセットMTRで録音したり。防音なんか一切してない普通の家だったけれど、バイオリンを弾いてる子もいました。古い木と埃となんらかの動物のにおいが混じったようなにおいがして、いつも薄暗いような、でもやわらかい陽の光が部屋を満たしていたような、記憶の中の不思議な空間……

「あの頃は深く考えてなかったけど、あの部屋いったいなんだったんだろ?」

昨年の秋、何がきっかけということもなく突然“あの部屋”のことを思い出した私は、ツチヤ君に何年ぶりかのメールを送ってみました。すると「ちょうど、来年の3月にあの家を取り壊すことが決まったところなんだよー!」という返事。これが虫の知らせというやつか!というわけで、ギリギリのタイミングで取り壊し前に再び見に行けることになったのでした。

中央線の駅から10分ほど歩いた静かな住宅街にあるその家は、道路に面したところには玄関がなく、右隣の家と左隣の家の間の細い通路を入っていった先に庭が開けている、という謎の構造になっていて、いつも異次元空間に潜入するような不思議な感じがしていました。でも、実は当時私たちが出入りしていたのは裏口だったようで、別の道に面したところに立派な正門があることを今回はじめて知りました。

古い建物の戸をガラガラと開けてすぐ正面がツチヤ君の部屋で、家族の人たちの気配を感じることも時々あったけれど顔を合わせることはほとんどなかったし、その部屋だけ他の部屋とはちょっと独立しているような感じがあったので、当時は「ここは、離れか何かなのかな?」と思っていたのですが、ずっと謎だった家全体の構造も今回の訪問で明らかになりました。

聞けば、この家はかつて料亭として使われていた建物をツチヤ君のおじいちゃんがわざわざ移築したのだそうで、言われてみれば建具や照明器具なんかの意匠がいちいち洒落ている! “古い建物”どころの騒ぎではなく、めちゃかっこいい日本家屋だったのです。当時はまったく気付きませんでしたがツチヤ君の部屋の前から左にのびる廊下は各部屋とつながっていて、これまた当時はその存在に1ミリも気付かなかった美しい庭の眺めも素晴らしい!

昔を懐かしむつもりだった私の台本が新発見の連続によって片っ端から書き換えられた上、ツチヤ君がこの家を出てからだいぶ経つのもあって、長いこと人が住んでいない“元・ツチヤ君の部屋”の中にあの頃の名残を見つけることは難しく、懐かしみモードはあっけなく終了。あとは近況を報告し合ったり当時の友達の消息などを聞いたりして、あまり長居はせずにおいとましました。

帰りの中央線の中で、「記憶の中のツチヤ君の家と、今日見てきたあの家は、どうしてあそこまで違っていたんだろう?」というのをぼんやり考えていたら、かつての“くつろげなかった自分”の姿が浮かび上がって来ました。

ツチヤ君の部屋に出入りしていた20歳前後の私は、友達とは1対1(多くても3人)で喋り倒し笑い倒す!という感じの遊び方しかしたことがなく、何人かの友達と誰かの部屋でダラダラと過ごすという経験がそれまでの人生でほとんどありませんでした。多様性に対する免疫みたいなものが限りなくゼロに近い状態だった当時の私にとって、“いろんな人が集まって、特にお題もないままなんとなく過ごしている空間”というのは未知の世界だったのです。

そんな未知の世界へポーンと身を投げ出す勇気がなくて、ギュッと身を縮めて、必要最小限の情報以外をシャットアウトしていた当時の私。あの家のかっこいい建具や照明器具だって画像として目には映っていたはずだけれど、脳がそれを一切解析してなかったわけです。見えてたけど、見てなかった。きっと他にもそういうものがいっぱいあるんだろうな。

私が開いてようが閉じてようが、そんなの誰もなんとも思ってなかった…というよりも気づいてすらいなかっただろうし、もっと普通にいろんなこと話して、興味を持って、みんなに何でも聞いてみればよかったのに! ああもったいない!! と今なら思うけれど、あの頃はくつろぎ方を知らなかったんだからしょうがない(なにしろ、本当にくつろげるようになって来たのだってここ数年のことなんですから)。

とまあそんな私の自我のあれやこれやはさておき、あの頃のツチヤ君の部屋が、くつろぎ方を知っている人も知らない人も一緒に過ごせるような場所だったのは確かです。これがもしマンションの一室とかだったら、またぜんぜん違ったような気がします。区切りがあいまいで開かれたつくりになっている昔の日本家屋の持つ力なのかもしれないし、商いの場として使われていた建物っていうのはやっぱり人を招き入れるふうにできているのかもしれないなーとか、いろんな想像がふくらみます。

隠れ家みたいな雰囲気はあったけど、何かこそこそと悪いことが行われてるわけでもなかったし、いわゆるドラマ的な要素がぜんぜんなくて、ただただ“なんでもない空間”としてあの場所にいつも開かれてあったツチヤ君の部屋。いびつな自意識でガチガチに固まってたわたしですら、自意識のすき間からその心地よい“なんでもなさ”をしっかり感じていたから何度も足を運んだのだと思います。

そしてその感覚が20年以上も私の中のどこか深いところで静かに生き続けていて、何かの拍子に再びふわっと浮かび上がって来て、今の私にこうやってまた新しい感覚をもたらしてくれるのです。

ツチヤ君の部屋は取り壊されてなくなってしまったけれど、私がそこから受け取った感覚はこれからも生き続けて行くわけで、時々浮かび上がって来たときに自分が楽しむだけじゃなくて、何か全然違った場所で、違った形で放流したりしてみたい。そうやってちょっとずつ巡っていったら面白いなと思います。ここに書いてみたのも、その放流のひとつです。
(おわり)

2016-05-06 | カテゴリー どこにもないエリアで会いましょう

 

03*コンフリクトちゃん(後編) / よしのももこ

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その小さな女の子、コンフリクトちゃんにひらめきを与えた2冊の本とは、ドイツ生まれのミヒャエル・エンデさんが1973年にリリースした「モモ」と、日本生まれの黒柳徹子さんが1981年にリリースした「窓ぎわのトットちゃん」だ。2冊とも単純に面白くてワクワクする物語であり、想像力の入り込む余地がふんだんにあったので、コンフリクトちゃんはそれはもう夢中になって読んだ。

どちらも小さな女の子が主人公で、たくさんの人々が登場する物語である。描かれているひとつひとつのエピソードの中でコンフリクトちゃんの中に強い印象を持って入ってきたものはアレコレあったが、もっと大きく見るとそこには「同じ画面のもとでも、採用するシステムの違いによってまったく別の宇宙が同時存在している」というシンプルな事実が描かれていた。

例えば「モモ」の世界では、自分の人生に対する小さな疑念や退屈感、効率化や貯蓄の概念など、ヒトの中にあるさまざまな想念データが「灰色の男たち」という存在を造り出し、その男たちに「いま、時間を貯蓄することで利子を獲得し、いつかの未来に得をすべき」と云わせてしまう。その設定を採用したヒトたちと、採用できなかったモモとの間では実際に同じ場に居て会話していてもコミュニケーションが成立しなくなり、ついには接触すらできなくなってしまう。

「トットちゃん」の方も、学校における「一斉授業」のシステムを無条件に採用しているヒトたちから見れば、トットちゃんは単なる邪魔者であり、小学校1年生の時点であっという間に退学させられてしまう。そこで描かれる「モモ」と「トットちゃん」の孤独はかなりのものだ。

ただし、その孤独が絶望的なのは大多数のヒトが採用しているシステムの中に無理やり留まろうとするときだけであって、そこからふと外れて見渡してみれば、この世には星の数ほどのシステムが毎瞬生まれては消えていることに気づくのである。大多数のヒトが採用しているシステムの中に留まることを義務であるかのように云うヒトは少なくないけれど、実はどれを採用しようと完全に自由であり、選ぶのは自分なのだ。

システムとは、ヒトを縛るためのものでは決してない。というか、そもそもヒトを縛る力なんてシステムには備わっていなくて、縛られたいヒトが勝手に縛られているだけだということにコンフリクトちゃんは気づいてしまった。そこではじめて、学校のすべてに合点がいったのである。

どの瞬間にも、有形無形のあらゆる存在が自分に向かって語りかけ、歌いかけて来ている。ただしひとつひとつの交信のタイミングはほんの一瞬であり、そのたった一瞬の「感じ」に気づいて受け取って投げかけて響きあうこともあれば、気づかずにそのまま流れて行くこともある。そのON/OFFの組み合わせによって、ヒトそれぞれの宇宙が形作られている。もともとは、たったそれだけのシンプルな仕組みなのだ。

つまり、「今」という一点にはすべての可能性が存在している。「モモ」と「トットちゃん」には、そのことがハッキリと書かれていた。文章で説明されていたのではなく、その「感じ」がこれでもか!というくらいダイレクトに放射されていたのである。それは小さなコンフリクトちゃんにとって、ものすごく大きな衝撃だった。

周囲を取り巻く環境(画面)は変わらないままだったけれど、その衝撃以前と以後とではコンフリクトちゃんの目に映るすべてがすっかり変わってしまった。コンフリクトちゃんは「どこにもない家」や「トモエ学園」を知ってしまった。知ってしまったということは、そこにいつでも行けるということだからである。

こうして、その小さな女の子・コンフリクトちゃんは、高校卒業までの12年間「学校」という場に通い続けることができたのだった。

2013-05-23 | カテゴリー どこにもないエリアで会いましょう

 

02*コンフリクトちゃん(前編) / よしのももこ

その小さな女の子、コンフリクトちゃんにとって「学校」という場の違和感ははなはだしく、行くのがとても苦手だった。

コンフリクトちゃんの「学校」にまつわる最初の記憶は、小学校1年生になったばかりの授業中にAさんというクラスメイトが突然ひきつけを起こし、泡を吐いて卒倒して救急車で運ばれて行った場面だ。机の上に吐かれたものを遠目に見ながら怖くて目が回りそうで、「こうやって教室で座って静かに授業を受けてると、自分が泡を吐いて誰かを怖がらせる側になるかもしれないんだ…」ということに気づいてしまったそのとき以来、コンフリクトちゃんは学校でお腹が痛い気配がすると教室から逃げ出して保健室に隠れるようになった。

3年生になり、Mくんというクラスメイトが机の中に隠し持ってた何日も前の給食のメロン(腐っていたものと思われる)のニオイをふざけて嗅いで盛大にリバースしたときもやっぱりコンフリクトちゃんは吐かれたものが怖くてクラクラしていたのだが、担任の先生が「こういうときに協力して掃除しないヤツは最低の人間だ!」と鬼の形相で説教するので教室のすみっこで必死に気配を消していた。

そういうときに具合の悪い子をいたわったり、掃除をサッとやれることがとてもあったかくてだいじなことだというのはコンフリクトちゃんもよくわかっていたし、できるものならそうありたいと思っていた。ただ、それとはぜんぜん別のところでただただ吐いたものが怖い。そればかりはどうしようもないのだが、「学校」という場ではそれは許されなかった。克服して合わせよと云われる。コンフリクトちゃんは、ひたすら逃げるしかなかった。

学校にはいろんな子がいる。ヒトは同じもの(画面)を見たとしても、それぞれが好きなようにそれを見て、好きなように解析して、手持ちのデータの中から好きなものと紐付けして好きなように認識しているのだから、100人居れば100個の並行宇宙がそこにあることになる。それらが出たり入ったりしながらランダムに関わりあって共存していくのがヒトの暮らしというものなんだとしたら、ぜんぶを一つの形にはめこんだり、束ねてラクに管理することを目的としたシステムにはどうしても綻びが生じてくる。誰かが無理をしないと成り立たないことになってしまうから。

しかし、おそらく、「学校」にはその綻びを修繕する余裕がなかった。無理をしている「誰か」の絶対数が少なければ、その綻びは一部の子ども固有の「問題行動」や「病気」として扱われるのみで、システム自体を疑ってそこに手を付けようとする者はほとんどいない。作られてからたかだか100年ほどのシステムがなぜか絶対不変のものとしてガチガチに固定され、多くの人がそれを採用してつつがなく過ごしていた(少なくとも表面上は)。

コンフリクトちゃんにとって、「学校」という空間の決められた席に決められた時間しずかにじっと座ってみんなで同じことをしなければならない、というのが最高にむずかしかったのだが、ただそれだけのシンプルなことが誰にも伝わらない。なぜみんなはこの「学校」とか「クラス」とか「授業」みたいな設定を割とそのまま受け入れて、ちゃんとこなせてるのかな? なんでこんなクソまずい紙パック牛乳を飲まないと怒られるのかな?なんでどこもかしこも薄暗くひんやりしてて居心地がよくないのかな? なんでこんな寒いのに半袖とブルマーで屋外走ってんのかな?…些細だけど不思議なことだらけ。

ヒトにはそれぞれその時々で固有のリズムというかテンポがあり、それとズレたところに合わせ続けるのはなかなかしんどい。

例えば「教科書の読み合わせ」という、一斉授業ならではのシステムがある。先生が朗読したり、当てられた生徒がひとりで読んだり、あるいは何人かがセンテンスごとに分担して読むのを聞きながら他の生徒は教科書の文字を目で追うというアレだが、コンフリクトちゃんは文章を読むテンポがとても速いので必ず朗読の声とタイムラグが生じてしまう。そこで自分のテンポを優先してどんどん先へ読み進んでしまうと、「次、コンフリクトさん、読んでください」と先生に指されたときにどこを朗読すればよいのかわからず怒られる。かといって文字を目で追うことをあきらめて朗読者の声を聞いていても、やはり指されたときにどこを読めばよいかわからない。となると朗読者のテンポに合わせて文字を拾ってゆくしかないのだが、これを数分続けているとズレに対応しきれなくなった脳みそがかゆくなって、コンフリクトちゃんは爆発しそうになってしまう。

そういう「感じ」がいたるところに散らばっていて、うっかり踏むと爆発してしまう空間に何時間もい続けるというのは緊張をともなう。 コンフリクトちゃんはいつも疲れていたし、不安定だった。

その一方で、小学校高学年になった頃には、それが「単なるシステムとの組み合わせ」の問題に過ぎないことにコンフリクトちゃんは気づいていた。今、自分が組み込まれている(ように見える)システムがすべてではないこと。まったく違うシステムがこの世に存在することを知るだけで、ひとつのシステムの中に居ながらにしてそこから外れることができる。そのことにコンフリクトちゃんは気づいたのだった。

それは2冊の本との出会いによってもたらされた小さなひらめきだった。そのひらめきに含まれる「感じ」はそのままコンフリクトちゃんの生きる軸となった。それを無視せず受け取ったことで、コンフリクトちゃんは脱出に成功したのだ。

2013-04-09 | カテゴリー どこにもないエリアで会いましょう

 

01*ラジカセとプリントゴッコ / よしのももこ

編集室屋上のさやかさんとのご縁から、こちらで書かせていただくことになった、よしのももこという者です。

はじめは自己紹介を、と思いましたが、自分で紹介できるほどよくわかっていないので書こうとすると手が止まってしまいます。これといった職業もないので「ももこさんは何をしている人なの?」とよく聞かれ ますが、聞かれるたびに真剣に困ります。

今も困っているのですが、ひとつだけ取っ掛かりがあるとしたら、さやかさんと私をつないでくれたのは音楽です。なので音楽のことを書いてみたいとおもいます。

私は18歳のとき(1992年)に、カセットテープをリリースする小さなレーベルを始めました。15mins. paradice factoryという、今となっては割とこっぱずかしい名前のレーベルです。20分テープに、両面合わせて15分ぶんぐらいの音源を収録するというコンセプトだったのでこんな名前になったように記憶しています。

最初のリリースの動機は簡潔で、自分のつくった曲を外に向けたかったからです。「デモテープをつくっていろんな人に渡す」っていう発想は最初からなくて、音源として売ることしかおもいつきませんでした。といっても、生まれた曲たちを外に向けて、それによってどうしたいという「目的」のようなものはぜんぜん無かったのですが。

自宅でカセットMTRで録音した曲を、秋葉原で安く買ってきたソニーの20分テープに自宅のWデッキのラジカセでダビングして、色画用紙にプリントゴッコでレーベルのロゴとタイトルなどを印刷したものをケースの形に組み立てて、西新宿や吉祥寺のレコード屋さんまで納品に行き、レーベル新聞を書いて配る、というのをぜんぶひとりでやってたんですが、今おもい返してもめちゃ楽しかったですねー。

その後10年ほど、録音物をつくったり、人前で演奏したり、小冊子をつくったり、いろんなことをしながら日々生きていましたが、やっぱりいちばん最初のカセットテープ時代の15mins.でやっていたことにすべてが凝縮されていた気がします。

はじめは月イチで、同じデザインの色違いの紙ケースで、ぜんぜん違うバンドの音源を立て続けにリリースするという形態でやっていました。前年の91年にイギリスのSeminal
Twangというレーベルがやり始めた、月イチで7インチシングルをリリースするシリーズ企画の「感じ」がすごく好きで、その「感じ」を自分でやってみたかったんです。Seminal Twangの7インチたちもジャケットの基本フォーマットが毎回同じだったのですが、バンドや歌手ごとにイラストなどのテイストが違ってて、バンドのタイプもバラエティに富んでいて、なんともワクワクする「感じ」がありました。

その「感じ」というのが、私にとっては、それがどんな音楽かとかどんなバンドかとかよりもずっと重要で、とにかく私はいつも「感じ」に触れていたかったし、「感じ」を放射したかったのです。自分で曲をつくるときも、リリースするときも、読み物を書くときも、たぶん動機はすべてそれでした。

「感じ」っていう言葉はそんなにぴったりではないので、もっとうまい表現がみつかればよいのですが。「雰囲気」とか「ジャンル」などとはぜんぜん違うもののことです。日本語を離れれば、「バイブレーション」あたりがいちばん近いのかもしれません。

「感じ」についてもう少し書きたくなってきましたが、また次回にします。

2013-03-01 | カテゴリー どこにもないエリアで会いましょう